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Image by Olga Tutunaru

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Interview

No Guarantee vol.8 掲載( 2014年発行)

ブル中野

ブル中野さんは、日本人で唯一のWWF(現WWE)女子チャンピオン。

メキシコでは老舗CMLLの初代女子王者に。

日本でもWWWAシングル王者となっていて、世界中でトップを取ったレジェンド。

取材時は、中野にお店を構えており、そこに至るまでのお話をお聞きしました。

現在はYoutubeチャンネルで、女子レスラーの秘話を対談形式で紹介しています。

Interview

Bull Nakano

プロレス入りの動機

家族は、テレビでやってれば見る程度だったけれど、私は絶対見ない子どもでした。それが小学校5年生のとき、ほかに面白い番組がやっていなくて、初めて猪木さんの試合を見たら、その1試合で、“私は生きてなかったな”と感じて。外人相手に流血しながら最後は勝ったという試合。それを見たとき、初めて感動したんです。こういうふうに思わせるプロレスって何なんだろうと思って。それから見るようになって女子にたどりつきました。

ビューティー・ペアはなんとなく知ってたけど。好きではなかったかな。入った頃は、ミミ萩原さんとジャガー横田さんがトップで。私が入った次の年にクラッシュ・ギャルズが生まれて、できるまでを見てるんですよ。わたしが入った頃は、(人気が)下火になっていて、ミミさんが歌とかだしてお尻半分出してやっていた頃。お子さんからおじいさん、おばあさんまで、女子中高生だけでなく幅広くお客さんがきてくれていた時代です。

いじめにあい地獄の日々

同期は、小倉由美、永友加奈子、いまレフェリーをやってるトミー蘭の柳下まさみ、小松美加ですね。

当時、いじめ、めちゃくちゃありました。ほぼ、それが理由でやめていく。あとは、練習がきついのが理由。

実は、中1でオーディションに受かってるんです。だから中2中3のときは、今しか遊ぶときはないと思って。そのとき流行ってたのが、横浜銀蝿とか、なめ猫とかで。なるべくして不良になった感じだったんです。そのままの感覚で入っちゃったので、みんなで協力してやる生活に合ってなかったんだと思います。普通じゃなかったんでしょうね。何をしても悪く思われていて。同期の中で目立ってたんでしょうね。私が一番いじめられてました。

入って、半年くらいは、挨拶しても口も聞いてもらえませんでした。憧れた選手に、それをされていたので、何なんだろうと思いましたね。きつかったですね。寝るときに、このまま朝が来なければいいと思ってました。埼玉から出てきたから、田舎にも帰れないし、このまま死ねればいいなと毎日毎日思ってました。

いじめが、なくなってきたのは、たぶん私が馴れたのと、先輩たちも飽きたのと。デビューして、仲間として受け入れてもらえてきたんからでしょうかね。

新人王を獲得し、ベルトも獲得

1年目の終わりに新人王を獲離ました。そうすると周りも認めざるをえない。新人王を獲った人は、会社も上げざるをえないというのがあったので。周りは、悔しかったでしょうね。新人王戦は、相手が会社からかわいがられていた子だったので、絶対に勝ってやろうと思ったし。夜中に、こっそり道場で練習していたときには、同期のみんなが私に勝ってほしくて相手をしてくれて。知らなかったのは、対戦相手だけだったと思うんですけど。

仕事するのかしないのかは、同期ならわかるじゃないですか。先輩に目立つっていうことは、お客さんにも目立つことだから、今、思えば、先輩に目もかけられないよりは、こいつは何かあるだろうというのがあったから、そういうふうになったのかなとは思います。

2年目すぐに、ダンプ松本さんに悪役にならないかって言われて、2年目の途中から化粧をしだしました。ヒールは(自分の中で)抵抗だらけでしたね。まさか自分が、と。夢をもって入門したんで。人気者になって、お金持ちになって両親に家買ってあげてって思ってました。

あの頃は、悪役になったら、出世街道からはずれるんですよね。引き立て役で静かに終われっていう会社の意向があった時代。当時は、悪役だと、ベルトも獲れないし、賞も獲れないだろうなと。それを断ったら、いれないだろうなと思ったので、やるしかないと思って。当時、地獄でしたね。でも2年目で全日本ジュニアのベルトを獲りました。

ブル中野
ブル中野
ブル中野
ブル中野のジャーマン・スープレックス

Interview

Bull Nakano

ヒールの道へ

(極悪同盟の)クレーン・ユウさんとダンプさんは同期だったんですが、仲悪かったんです。だから、ダンプさんはクレーンさんをやめさせて、わたしを入れたのかなと思います。ダンプさんには、可愛がってもらったし、いろいろ教えてもらいました。年に1回、全員総当たりで試合(ジャパングランプリ)するとき、ダンプさんとクレーンさんが試合をするとき、ダンプさんにお前は、セコンドにつけって言われました。それをきっかけに、ユウさんも引退してしまったので、パートナーにしていただいて。

WWWAタッグのベルトも獲りましたね。ダンプさんと組んでるときは、ダンプさん主導で、チャンスがあれば、自分のいいところを出せるように。後輩と組んだときは責任がある。勝っても負けても自分の責任。ダンプさんとの最後の方くらいから、ほぼ独立してました。けっこうダンプさんと組んでいるときから、ほぼ一人でした。極悪同盟のときは孤立してたんですよ。

ダンプさんが引退したとき、一人でやっていこうと思ってたので。グループをつくるつもりはなかったんですけど。残った後輩が、中野さんについていくっていうことだったので、獄門党をつくりました。個性とか自分たちの好きなようなかたちで自由にやって。ダンプさんが明るく、可愛い感じだったので、真逆のことをしようと。怖い感じで、名前も獄門党にしたんですけども。

WWFに登場

WWFのMSGデビューは、クラッシュとセット。日本に来ていない選手にあたっちゃって。ダンプさんがラリアットやったら、相手が鎖骨折っちゃったりとかして。

MSG、印象ないですけどね。そんなに凄いって思っていませんでした。聞いた事あるなって、ボストンバッグにもありましたよね。そのとき、わかっていれば、幸せですよね。そのときは、精一杯で、当時は、楽しむとか、振り返っている暇はなかったですね。このとき17歳。何もわからないまま連れていかれて。アピールという面で、日本と全く違うので、何試合かやっただけでも、こうしたら沸くんだろうなとか、お客さんこうしたら楽しむんだろうなというのは、なんとなくありましたね。このとき、日本では絶対やらないだろうなっていう、オーバーアクションもやりましたし。

 

その後、ヒールのまま、WWWAシングル王座を獲得。デビル雅美が獲った時もベビーにターンしていたタイミングで、日本人ヒールで赤いベルトを巻いた初の選手となった。そして、アジャ・コングと抗争。金網デスマッチで、金網のトップからギロチンドロップを放ったことで、伝説の試合となった。ベルトを落とした後は、メキシコのCMLL、アメリカのWWFなどを転戦。WCWでベルト奪取のチャンスがあったが、怪我で実現せず。それが、実質の引退となった。

WWWA王者に

当時、ヒールで、WWWAシングルを獲るのなんてありえなかった。よく会社もくれたなと思います。仕方なかったんでしょうね(笑)。最後はライオネス飛鳥さんが返上して、空白の時間があって、空白があったのに巻かせなかったんです。絶対、悪役には赤いベルトを巻かせないっていうのがあったんでしょうね。私たちがやってたときは、会社は認めたくなかったんでしょうね。お客さんが、答えを出してくれたけど、全女=松永兄弟は、最後まで、いやだったんじゃないかなあと思います。

会長には、すごい可愛がっていただいたので感謝してるんですけど。「ベビーフェイスをつくるために、動いてくれよ」って言われてましたし。

(伝説の金網)25年前ですよね。25年間覚えていてくれるような試合ができて。ありがたいですね。(落ちた反動で立ち上がってましたねと問うと)そうなるとは思わなかったですね。ギロチン、はずむんだ〜。

WWWAのシングルのベルト獲った後が、一番つらかったですけどね。

常に追われる立場で。辛かった。失敗できないし。1回良い試合したら、次はもっと望んでくるし。金網でギロチンやったら、回転ギロチンやって、次はムーンサルトとか。

当時は、「100kg」に拘ってました。会場に入った時点で、お客さんがわっすごいなっていうふうに、見た目でもわかりやすく。この世のものでないものになる、人間じゃないんじゃないかっていうのを目指していました。これがプロレスラーなんだっていうのを体で現したかったんで。100㎏には拘わりましたね。でも92kgまでしか太れなくて、男性ホルモンを打ったりして。それをしてから、115㎏になったんですね。115㎏まではよかったんですけど、118㎏になったら、動けなくなった。たった3kgなんだけど、腰とか膝にガタがきて、全然違うんですよ。金網の後ぐらいに118㎏になって。

海外を転戦に引退へ

(CMLLとか、WWFとかでチャンピオンになりましたねとの問いに)日本のレベルが世界一だからですよね。だから、どこにでも合わせられますし。

もともと、全女の選手は言われた事をやる。その中で自分をどうするのかっっていうのが全女。できないことはないし。

WWFのときは規制がありました。例えば、サインは必ずしなくちゃいけない。断ってはダメ。ポートレートを何百枚も渡されて、持ち歩いて、それにサインをしろと。中であったこと話しちゃいけないとか。アメリカでは、そう大きくないので。化粧してなかったら帽子をかぶったらわからないかな。化粧したらわかるけど、目立つような感じではなかった。

WWFでは、ほぼ相手はメデューサ(WWFでのリングネームはアランドラ・ブレイズ)。ずっといっしょでしたね。メデューサも日本のときとは、違うことを要求されてたんで。

東京ドームでベルトを獲れたのは、よかったんですけど。ホントはアメリカで獲りたいなと思ってました。ドームでセミ。1試合目にしてほしかったですね。セミじゃ辛い。もろアメリカンチックにしないとドームで通用しないと思ってました。絶対、アメリカンスタイルでやったほうがいいと思ったんですけど、メデューサは日本のスタイルでやりたかったみたいで。いろいろ食い違いがあって。

6ヶ月か8ヶ月かやって帰ってきたときは、怖かった。日本のお客さんが。アメリカではすごい楽なんですよ。日本みたいに激しいことしなくても。アメリカのお客さんは、最初から楽しみにきてるんで。こういうタイプを使ってくれたのは、私で、最後じゃないですか。今は、プレイボーイとかにでてくるような人たちばかりで路線も変わったし。

当時トップをはってたのが、ブレット・ハートとショーン・マイケルズ。ブレットは日本にも来たし、うまいなと思ったし、ショーン・マイケルズも絶対はずさない。彼らは、うちらの試合を見に来て、次の日の試合で同じことをやってみたりしてましたから。そういう意味で影響力があったんだろうなとは思います。男子の人にも。

アメリカでは、日本式にやりたかったんです。日本のブル中野でやりたかった。アメリカンスタイルでやったら、良さが出ないだろうなと思ってたので。

メキシコは、くるくるまわったりする感じじゃないですか。飛んだり跳ねたりはできないけど、何が好まれるのか、勉強しました。

絶対、一番にやらないと意味がないと思ってるんですよ。プロレスってちょっと肘の曲げ方が違うだけで、違う名前になっちゃう。それはそれでいいんですけど。何をやるにも、一番にやらないと真似になっちゃうんで。人がやってないことを追求してましたね。多分、プロレスのこと世界一考えてただろうなって思うし。だから世界一になれたと思うし。こう返したらいいんだろうなっていうのも夢で見てました。技の掛け方とか、そうなんだ、そうなんだよねって、練習してました。本当好きでしたね。全然、苦じゃなかったし。

最後、WCWを獲って、終わっていたら、最高の完結だと思ってました。その前に膝のじん帯切ってダメになってしまったのも、それもブル中野らしいかなって思います。

引き際

 もともと、かっこよく辞めようと思ってなかったし。クラッシュにもダンプさんにも誰にも勝てずになったチャンピオンですから。かっこいいまま引退して、残された後輩たちが、どう思うのかも身をもって知ってるので。そのとき、辛かったんで。先輩を越せずにチャンピオンになっちゃったので。強いまま、全女にいようと思ったから。かっこよく辞めるのは簡単なんです。

レスラーだけど、人間だから。人間の老いや世代交代もちゃんとお客さんに見せて、それをわかった上で、勝ったアジャ・コングは自信がつくだろうし。それは、わたしがやらなきゃいけないトップとしての仕事だと思っていました。それが、できて、それは満足でしたね。アジャにベルトとられたとき、やっと終わったんだねという感じですね。

2年半、ほぼ毎日あたってたんで、やっと勝ったんだねていう感じだった。毎日、すっごい辛かったんだろうけど、痛かったし。隠すこともできなくて、少しのカッコづけもできないぐらい、いっぱいいっぱいでした。その中での勝った負けたっていう試合なので、これくるんだろうなっていうのも全部わかるんですね。アジャの場合はごまかせない。あっちも真剣に倒そうとしてくる。カッコつけてやってると何も見えてこない。

今、会って話すと、いい思い出しかないんですよね。やりきった感しかない。アジャにしても、神取忍にしても。そういうふうに闘ってきた人はそうですね。

ブル中野

Interview

Bull Nakano

プロゴルファーを目指す

次にする仕事にブル中野っていう名前は使いたくなかったんです。突然ケガしちゃったんで、心の準備もなかったし。ギロチンやろうと思ってもコーナーに上るのも時間がかかっちゃって。これはお客さんに失礼だと思って。もう辞めようとすぐ辞めちゃったんですね。次のこと何も考えてなくて。

久しぶりに実家に住んで。何もしなくていいんだよって親に言われたとき、何かしなくちゃいけないと思っちゃうんですよね。そのとき、「やせて働きなさいよ」って言われたら、「いままでしんどい思いしてきたのに」って違ってだろうと思います。

自慢のお姉ちゃんにならなくちゃって思っってました。そのときは、プロレスを消そうと思ってました。

やりたいことはなかったんです。たまたま、現役のときにちょっとやったことがあったゴルフだったらやってみたいなと思いました。やるんだったらプロを目指そうと。

やろうと思ったときは、膝が悪くて、歩けなくて階段もあがれない状態でした。3か月後にゴルフ場に入ることが決まったんです。3ヶ月で普通の研修生と同じように走れるようになろうと。50kgやせて、負担がなくなって、ゆっくり走れるようになった。1回、全部プロレスの筋肉も脂肪も落としちゃったっていう感じですね。

朝から晩までスポーツジムにいました。インストラクターの方も心配するぐらい。行く度に痩せていくので、おかしくなってるんだってみんな思ってたみたいです。

プロテスト、受かってないんですけど。ハードル高かったですね。日本でもやってたんですけど。30歳になってたので、なかなか受けてもらえるところがなくって。テロの影響で、ビザが短くなって。何回も行くのはおかしいとなって行けなくなって。グリーンカードとるまでは、ちゃんと練習できませんでした。

最後の最後はゴルフだけの時間ができて、いい練習もできて、いいコーチもいて。これでダメだったら先はないかなって思ってテスト受けたんですけど。そのうち、お金もなくなってきて…

日本でお店をオープン

お店は、結婚したのがきっかけですね。それまでは、ブル中野っていう名前を出したくなかったんです。ゴルフが人生、初めての挫折。それまで、一般の方と関わる事がありませんでした。

ゴルフを始めて、世間の人たちと関わりあえて勉強になりました。アメリカでゴルフをやってたときは、周りはブル中野っていう名前も知らない人たちばかりなので、人間力の勝負。人と人のつきあいは、すごく勉強になりました。

それがなかったら、いま、お店で話もできなかったと思うんですよ。人間としての自信がついたのかな。ブル中野じゃなくても、生きていける。そうじゃなくても、人は見てくれるし、集まるし。

 

プロレスをやっていたことは、隠す事じゃないし、自分がやってきたことだし。

日本に帰ってきて、ここでやっていくってなったんだったら。みんなに知らせて。引退式をやって、けじめをつけて、ブル中野を終わらせなきゃいけない。

そういうふうに思わせてくれたのは、旦那さんの存在ですかね。ムエタイの選手だったんですけど。

「有名で人気あって、誰でも知ってて。なれない人がほとんどなのに。もったいない。そこまでなったのに、それを隠す必要はない。もっと自慢していいし、もっと発信していけばいい。」

あまり人の意見を聞く方じゃないんですけど、そう言われたとき、納得したんですよ。

最近は、テレビとかでも(プロレス中継)やらなくなったし、女子プロやってるの?っていう人が多い。プロレス見てた人は35歳か40歳後半の人が多い。その人たちに、もう1回見てもらいたい。この店で1日店長をやってもらった選手の団体を見に行ったりしてますが。プロレス帰りじゃないですけど、きっかけになってもらえれば。

なかにはYoutubeを見て、ファンになったっていう若い人もいる。

ちょうど、35~40歳ぐらいの人は、自由に飲める人が多く、「やっと会えたね」っていう感じですかね。

人と接するとき大事にしていること。

プロレスに例えちゃうんですけど。

3000円のチケット買って、つまんなかったら次いかない。3000円のチケット買って3500円とか4000円の価値があれば、次きてもらえる。それを忘れないようにしています。飲み代が5000円だったら、それ以上に楽しんでもらえるようにしています。わたしたちもバカやっていて、まだ、そんなことしてるのって思っても、とにかく楽しんでもらい。

現役のとき、50人ぐらいしかお客さんが入っていないとき、絶対、今日の試合が面白かったら、次、その人はお友達つれてきてくれるから。そしたら、倍になる。それを繰り返していれば、また、入るようになる。それをいつも言ってやってました。

来て、明日から頑張ろう、と思って帰ってくれたらいいと思います。私が、猪木さんの試合をみて、思ったように。違う世界にきて、ここで発散できればいいかな。と思ってやってます。

ブル中野
ブル中野
ブル中野

プロフィール

1968年1月8日、埼玉県川口市出身。1983年デビュー、1997年引退。現在は、東京都中野区で、バーを経営。1990年、横浜でのアジャ・コングとの金網デスマッチは、伝説の試合。1990年WWWAシングル王者に。1992年メキシコで、CMLL初代女子王者に。1994年11月、東京ドームで、WWF女子王座獲得。ほかに全日本ジュニア、WWWA世界タッグ、オールパシフィック王座を獲得。

※現在はYoutube「ぶるちゃんねる」で精力的に活動中

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