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Interview
No Guarantee vol.4掲載(2011年発行)
マスクド・スーパースター
1970年代から80年代にかけて、アントニオ猪木率いる新日本プロレスに何度も来日し、
猪木、坂口征二、藤波辰爾などと激闘を見せたマスクド・スーパースター。
昭和のプロレス・ファンにはよく知られた代表的なマスクマンが、2011年7月に、日本で引退試合を行った。
文・試合写真:山川隆一
写真:吉田武
コーディネート&翻訳:岩田章裕
Interview
Masked Superstar
流星仮面FIESTA
2009年7月、「流星仮面FIESTA」というイベントが行われた。これは、プロレス団体が主催する大会ではなく、大会を運営する個人の集まりによって実行されたものだ。マスクド・スーパースターをメインにしたレジェンド・ショー。アメリカでは、毎年、多くのレジェンドが集まり、ファン・フェスタと呼ばれるイベントが開催され、元レスラーとファンの交流が行われている。そのやり方を日本に導入したかたちだ。いいオヤジたちが少年のときの気持ちを思い出し、素直にサインをもらい、素直に記念写真を撮り、素直に試合を楽しむ。そして、実際に会場で感じたことは、とても温かい空間で、幸せな時間を過ごせたということだった。
日本ではヒール(悪役)だったスーパースターのイベントがなぜ日本で行われるのか。不思議でたまらなかった。そんなにファンも多くいないだろうと、タカをくくっていた。しかし、会場は満員。サイン会の列も半端無く、終了するまで1時間以上かかっていた。
この大会が実現した背景には、レジェンドとファンの交流があったという事実がある。海外のレジェンドたちと、個人的に交流している日本人が意外に存在しているのだ。このインタビューをコーディネートしてくださったIさんも、そのうちの一人。エンジニアとして国内外を飛び回っている中で、スーパースターと出会い、個人的な友情を育んできたのだ。
プロレス入りとマスクマン
まずはその経歴から。大学卒業後は、高校教師とフットボールのコーチをしていたマスクド・スーパースター。ジート・モンゴルに見出され、アルバイト的にリングに上がっていた。「友人の父がボクシング、プロレス等のコミッショナーをペンシルベニア州でしていたので、よくプロレスの試合に連れて行ってくれました。そのとき(ピッツバーグ)の試合でジートを紹介してもらい、誘いを受けたのです。その後6カ月間のトレーニングを経てレスラーになりました。当時は教師もしていたし体には自信があったのでレスリングをすることにあまり抵抗はありませんでした。当時は、本職でレスラーになることも考えていませんでした」。社会的なポジションを考えると教師を選ぶ人が多いのではないか。「レスリングのステータスについては何とも言えないが、当時、私は教師だったし、教育機関の職として規律もしっかりしていた。ステータスとすれば教師の方が一般社会の視点からするとスマートに思われるだろう。その後、パートタイムJOBとしてレスリングをすることになった訳だが、教師が本職であるため週末や夏休みといった限定した時間しかしなかった。あくまでもメインの仕事は教師でありレスリングはパートタイム。この時期にフルタイムのレスラーになると考えたことはなかった。生活面を考えると(待遇・ギャラ)レスリングの方が良かったのは事実。教師とプロレスを続けるか考えたとき、妻に相談すると “やってみたら”と。当時からすればフルタイムのプロレス入りはギャンブルみたいなものだった。そして今、レスラーを引退して、また教師として戻れたことを嬉しく思っている。教師のライセンスを持っているので復帰は難しくなかった。当時は州毎にコミッションがあり、ライセンスが必要な州もあれば、必要無い州もあった。一般的な社会ステータスとすれば教員の方が良いかもしれないが、昔のプロレスは稼げる仕事だった」。
レスラー一本にしぼってからは、ジートとのコンビでザ・モンゴルズとして活躍。髪をそりあげ弁髪に。当時よくあった、ニセ外国人のギミックだった。
「弁髪について恥ずかしいとは思ったことない。しかし、髪型がストレンジ(奇妙)だったので当時小さかった私の娘は私を怖がっていた(笑)。しかし、これも仕事の1つ。家族のためにしたことなのです。家族はNo1(一番大事)なのです」。
モンゴルズを名乗って早々の1975年には、新日プロのリングにも登場している。「日本に来た時は正直驚いた。アメリカ、カナダ、ドイツ・・・色々な国で試合をしてきたが、日本がNo1レスリングファン。多くの有能なレスラーが来ており、日本のファンが一番レスリングを理解していると思う。初来日の際は、日本人レスラーのレベルの高さに驚いた」。
その後、ミッドアトランティック地区でマッチメーカー&ブッカーをしていたジョージ・スコットからのオファーでマスクマンに変身した。「当時、そのエリアにはスポイラー(ドン・ジャーデン)が人気を誇りトップレスラーだったが、彼がこのエリアを去ってしまった。そしてマスクマンに空きが出てしまったこともあり、ジョージは私にマスクマンにならないかとアプローチしてきた。結果として彼の依頼を承諾」。初めて覆面を被ったときは「特にヒーローになることは考えたことはない。あくまでも仕事の1つ。マスクを被るというアイディアは面白かった。特にファンに知られることがないのだからプライバシーを守れることは良かった」。当時は、現在のようにマスクメーカーが確立していない時代。「義理の祖母(奥さんの祖母)がマスク、リングジャケットやタイツを作ってくれた。彼女は、デザイン、アート、音楽等全ての面で長けていた有能な女性だったのでマスクのデザインも彼女が考えてくれた」のだそうだ。「初めてのマスクは2つあった。1つは黒に白の星、もう一つは白に黒の星のデザイン。この2つが最初のマスクのタイプ。他にタイツ、トップ等多くのカラ―があった。当時は1000以上のマスクを持っていて、祖母が死んだ後でも彼女が作ってくれたマスクを使っていた。マスク製作については色々と聞かれることがあるが、私のオリジナルマスクは彼女が製作したもの。一時期、南米、日本のものもあるが、ほとんどが祖母製なのだ」。
Interview
Masked Superstar
マスクマンのプライベート
プライベートでは、当時のトップレスラーは遠征が多く、離婚を余儀なくされることが多かった。しかし、スーパースターは、スーザン夫人とずっと結婚生活を続けている。「レスラーの時には、家族がいてもほとんど家にはいなかった。日本、アメリカ、南アフリカ、ドイツ等の遠征があり、ある時は1年も自宅に帰れない時もあった。2人の娘は成長して、今は結婚して4人の孫がいる。孫のフットボールを観て公園やスイミングに行ったり、孫と接する時間がリラックスできる時間。私の妻はあらゆる面でワイフ。日本に遠征しているときでも彼女は決して電話をしてこなかった。何かあっても家計・自宅のことは彼女が判断して決めてくれた。結果のみを教えてくれたので、安心して任せることが出来た。そう言う意味では私を支援してくれ、本当に素晴らしい女性だと思っている」。
教師という立場、親という立場で子供を育てることの違いがあるのだろうか。「ワイフが子供を育てたのでわからない(笑)。彼女が一番!!子育ては彼女が全てやってくれた。凄くしっかりとした女性。全て彼女の考えで決めた。家の購入、旅行の場所、病院、車購入…全て彼女が決めた。私が帰宅すると彼女もリラックスできたようだけど。私は彼女を妻に持てたことを非常に幸せに思う。約20年のレスリングキャリア時代、おそらく合計7年は家に居なかったと思う。プロレス現役時代(遠征中)は毎日ワイフに電話をしていた。それだけ家庭を大切にしていたという自信がある。子供についても同じ。ホテルやロビーから電話をしていた。遠征から帰宅しても数日しか自宅にいなかった。おそらく25日間遠征して2日間くらいしか自宅に居られなかった。でも自宅に帰るときにはリラックス&エンジョイできた。子供達にとって私はサンタクロースみたいなもの。当時は遠征が終わるとショートバケーションに行ったりしていた。今年はディズニーワールドに行ったりビーチ、山に行ったりしている」。
2年後の2011年7月、「流星仮面FIESTA FINAL」が行われた。これは、スーパースターへの想い、実際のスーパースターの人柄に触れた人たちの気持ちの結晶だった。最後の試合に使用されたマスクも、日本人の製作。ずっとチャリティで作っているTJさんの作品だった。スーパースター本人も「材質、つくり、そしてかぶり心地でベスト」という評価をしている。リング上での最後の挨拶でも、友人たちの名前を挙げ、感謝の気持ちを表していた。
マスクド・スーパースターは引退したが、彼と友人たちのフレンドシップはなくならない。また、近い将来、彼に会える日がくることだろう。
最後に、日本のファンへのメッセージ。
「いつも私の支援をしてありがとうございます。日本には多くの友達がいますが今回の来日を通じて新しい友達が作れれば嬉しいです。今回はレスラーとして最後の来日になります。私は引退しますが、次回は家族を連れて戻ってきたいと思います。妻、孫達、家族には日本の特有の美しさを何度も話しており、家族も来日できることを熱望しています。この素晴らしい日本に近い将来、戻って来られることを楽しみにしています。ファンの皆さんのチャリティの協力に心から感謝します。今日はありがとうございました」。
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Masked Superstar
プロレス黄金期の日本での活躍
マスクド・スーパースターとして初めて日本に登場したのが1977年。
フライング・ネック・ブリーカーという必殺技をひっさげて鮮烈な印象を残した。
「フライング・ネック・ブリーカーは、ジャイアント馬場の試合をアメリカで見て気に入ったので使ってみようと考えた。その後、トレーニングをしてアメリカで使い始めた。でもクレジット(権利)は馬場にくれてあげる(笑)。このクローズラインは凄く気にった技。この技は実際に使ってみないとどのようなものなのか分からなかったのだが、トレーニングをして試合で使ってみたら非常にグレートな技であることを実感できた。馬場のクローズラインもグッドだけど私のクローズラインもグッド。イミテーションはお世辞と同じ。使ってみないと分からないし、偽物は本物になれない」。そして、モンゴルズ時代とは別人のような活躍を見せた。「ミッドアトランティックで自信を付けた。常に自分が良いレスラーになることを心掛けていた。レスラーとして色々な機会を与えられ、それをこなした。いつもトレーニングや運動して、更に多くのことを学んだ。ベネフィットはトレーニング、運動。自分の気持ちをコントロールしてよい試合をファンに見せることが大事。常にグッドコンディションを維持することが大事なのだ。これらのことが自信に繋がっていく」。日本での対戦相手は、アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰爾へとターゲットは変わっていった。「3人共にみなグッドレスラーである。猪木は人気があったし、今でも大人気のようだ。坂口はストロング。藤波はスピーディで人気があった。彼らに言えることは“リングセンス”があったこと。ダウン、エスケープ、ホールド、カウンターホールド等全てを備えていた。これらを全て備えることは簡単そうだけど実は簡単ではない。初めて日本に来た時感じたことは当時の新日本のレスラーは、教育をされていたしトレーニングもしていたのでリングセンスを持っていたレスラーが多かったと思う。今は変わってしまったようだが」。
その後、日本で知り合ったビンス・マクマホン・シニア、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・マードックらとの縁で、活動エリアを拡大。WWF(現WWE)では、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガンらの王座をめぐり何度も死闘を演じた。
また、日本で使ったマシンズというギミックは、WWFで再生され、多くのレスラーがマシンに変身した。「アンドレと来日した際、オリジナルマシンは新日本を去って全日本に移籍していた。若松だけが残っていた矢先、アンドレに頼み込んだようだ。マシンにならないかと。(実際はピーターさんのアイディアのようだが)新日プロのマシンズは、ファンの誰もが知っているマスクマンだった。短期間であるがファンもエンジョイできたと思う。当時はスーパースターとして来日したのだが、ホテルに入るとアンドレからの伝言があり、『部屋に来てくれ』と。部屋に行くとアンドレが“マシンになろう“と誘われてマシン軍団が誕生した」。日本でのベストマッチはという問いに、「難しい質問。多くありすぎて。日本人では猪木、坂口、藤波、木戸修、藤原喜明と何回も闘ったし、アメリカ人レスラーはトーナメントでアンドレ、ホーガン等の強豪と試合をしている。トップレスラーが日本に来ていたのでピンポイントで1,2,3で選ぶことは難しい」。
WWFでは、後に素顔にペイントを施し、アックス・デモリッションとしても活躍。アメリカ全体、WWFが公演しているイギリスやドイツなどでは、アックスの方が有名ではある。
プロレスにおけるコミュニケーション
次に、各エリアでトップクラスで闘ってきたスーパースターの考えについて聞いてみた。
雇い主であるプロモーター、試合をつくるレスラー仲間、プロレスにおいて、「良い関係」をつくっていくために、何が必要なのだろうか。「“Honesty and Trust” これが全て。どんな局面でも重要なことだと思う。とにかくお互いの信頼することが大事。100% or Moreの試合をするのがレスラー」。プロレスは、よく対戦相手だけでなく、客とコミュニケーションしながら試合をつくっていくと言われる。「昔はファンと話すことはなかった。試合でファンを引き付けエキサイトさせることかもしれない。当時は試合構成、対戦は完全にヒール、ベビーフェースと分かれていた。今となっては、あまり試合をしていないのであまり分からないが、25年前はそうだった。いかにファンをエキサイトさせるための努力は必要。今は多くのことが変わってしまったが現状はあまり良いとは思えない。詳しくはわからないが。レスラーはグッドアスリートであるべきだし、レスリングはアート。フィジカルアビリティーを備え、見栄え、パフォーマンス、心理学も必要だと思う。このようなことが融合して初めてファンがエキサイトできる。これが良いレスラーであり、良いレスリングだと思う。成功の秘訣ではないか」。MSGなど数万人の前と、数百人しか入らない会場とで、パフォーマンスの仕方は違うものなのだろうか。「客の数、アリーナの大きさに関係なく、全力を尽くす。これがレスラーとしての使命であり私の信条」。
ファンから見ると、「チャンピオンベルト」はとても価値あるもの。しかし、リング上のパフォーマンスと違って、レスラーの人たちは意外に思い入れがないようだ。坂口征二は、柔道時代にもらったトロフィーは家に飾っていたが、プロレスでもらったトロフィーは飾ってなかったと俳優である息子の坂口憲二が話していたことがあった。「ちょっと少し寂しい話。坂口は、レスラーで色々と犠牲を払ったと思う。レスラーとしてもリスペクトしているし、グッドガイなので彼の子供がそのようにプロレスのベルトに興味を示さなかったのは残念な話だ。タイトルはテリトリー毎にユニークなものである。“ベルトはレスラーとして成功を示す”。チャンピオンはどれだけ観客を沸かせるか、エキサイトさせるかが問われる。よって、ファンを楽しませることやエキサイトさせることがチャンピオンに課せられた重要なファクターなのだ。ジョージアでトップを取れたことは私を認めてくれたという証だと思う」。