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Interview
No Guarantee vol.9 掲載(2014年発行)
ナンシー久美
ナンシー久美さんは、ビューティー・ペアの女子プロレスブーム時に活躍し、一度引退。
その後、ジャッキー佐藤との縁でジャパン女子プロレスで復帰。
現在は、清心館(本部:横浜市都筑区)で、空手インストラクターとして活動中。
Interview
Nancy Kumi
プロレス入りのきっかけ
ナンシー久美さんがプロレス入りした時代は、マッハ文朱の歌手デビューが人気を博し、ようやく一般の人たちに、その存在が知られるようになってきた頃。その後、ビューティー・ペア(ジャッキー佐藤&マキ上田)人気が女子中高生を中心に爆発、全国的にブームが起こった。
中学のとき、私たちの年代としては、体格は大きいほうだったんですね。自分自身、格闘技はあまり好きではなかったんですが、柔道の先生に追い回されてました。でもかたくなに嫌だって言って。ガニ股になるとか変な先入観があって嫌だったんです。それが中3で、高校を決めていかなければいけないというとき、とにかく家を出たかったんです。何かい良い方法はないかと考えていて。そんなとき、テレビを見ていたら、女子プロレスやってて。父が見てたんですよね。下の方にテロップで選手募集って出てて。これは面白いかもって何も知らずに、自分で履歴書を書いて送ったんです。それが12月ぐらいだったかな。翌1月に連絡があって、ぜひ面接にきてくださいと。両親に「明日、面接だから」って言ったら、「何?」「女子プロレス」「えっ?」って。当時、オーディションとかはなく面接だけだったんですけど、「今日から採用」って言われて。ルールも知らない、フォールって何っていう感じだったんです。でもなんとかなっちゃうんですね。
出身が横浜だったんですけど、中学が厳しくて、卒業式を迎えるまでは、行っちゃダメだと言われてたんです。どれだけ職員室で泣いたか。まだ、子供だし、ダメだと言われると、意地でも行ってやるってなって。学校に内緒で、セコンドについたり、練習に行かせてもらっていました。かなり、教育委員会でもめたらしいです。今考えると、ケガしたりしたとき、責任を問われるのが嫌だったんじゃないでしょうか。
2か月半でデビュー
入って最初は、びっくりしました。ランニングがざっと10kmなんですよね。考えてもみないことばかり。真っ青な顔して一番後ろからついていってました。15~16歳の頃っていいですよね。義務教育からの流れで、やれって言われたら疑いもせずにやるんですよね。子供のチカラってすごいですよね。幼い頃からやっていたほうがいいのかなあって思います。自然とできていくし。
そして2か月半でデビュー。当時は、受け身ができれば、あとは、実践で学んでいけというのが会社の方針だったんです。デビュー戦、覚えてます。後楽園ホールで、相手は阿蘇しのぶさん。体は小さいのに、リングに上がると大きく見えるんですよ。ボコボコにされました。デビュー戦から場外乱闘ですもん。怖かったし、痛かったし。5分もったのかな。当時、自分の試合が終わったら、すぐにセコンドにつかなければいけないので、考える暇もなかったんですけど。
1年後には歌手デビュー
私たちが入って半年ぐらいたった頃、ビューティー・ペアの人気が出たんです。『かけめぐる青春』を出して、1か月ぐらいで。そのうち、わけわからないうちにフジテレビに呼ばれて。みんなが言うのは、「お前は、一番先に辞めると思っていた」と。おとなしくて気が弱いと思われていたみたい。「よくここまでもったな。だったら、これからも頑張れるよな。歌でも出さないか?」と。16歳だったので嬉しいじゃないですか。「わーい」って。当時、会社の人に言われると、全部ストンとはいってきて「うん」って。その後のことは、頭になかったですね。でも、歌を出すのが決まってからは、こんなはずじゃあというのが続きました。プロレスの実力もないのに歌出してどうするの?って。会社だって、売れない人にはしないだろうって気づいたのが遅かったんです。
歌は、田園コロシアムで発表だったんです(1977年7月29日)。そのとき、佐藤さんと組んで、初めてWWWAタッグのベルトを獲ったんです。それからは、お客さんの野次がすごかったですよ。「それでもチャンピオンか」って。ビューティーのファンの若い女の子に交じって、目の肥こえたおじさんもいたし。ビューティーのファンからは、「隣にいて何やってんだ」って。当時、2つベルトを持つことはできなかったんですけど、佐藤さんがシングルのベルト獲ったことで、12月になったら、佐藤さんがベルトを返上。知らない間に獲らせてもらって、知らない間になくなった(笑)。きっかけはつくってあげたから、あとは自分で頑張れよっていう感じでしたね。そのとき、簡単に返事するもんじゃないなあって思いました。
当時は、年間280試合以上で、毎日のように試合だったんです。会場に着いて、1時間ぐらい練習する。基礎体力やって、受け身やったら終わりっていう感じでした。考える時間はなかったですね。でも、そんな状況でも、佐藤さんは研究してたんですね。練習してたんです。そこに「すごいなあ」で終わっちゃう自分がいました。
技はマネージャーから、いついつまでに新しい技をという宿題を出されて。スープレックスは得意としてました。古くから伝わってきている技1個を磨くというのもひとつかなって思ってました。キレイにダイナミックにできればいいと思って。女子プロの中では力はあった方なので。
<タッグ・パートナーについて>
ジャッキー佐藤(第67代WWWA世界タッグ王者)
何も考えられなかったですね。ただ足をひっぱっちゃいけないと思っていましたが、いつも足ひっぱってましたね。怒られもしたけど、いい勉強させてもらいました。とにかく必死だった。佐藤さんってやると決めたことはとことん頑張る人なんですよね。
「私たちの後に、歌の活動やってくれて嬉しい」と言われたことがあって、その言葉は、私の宝物です。
ゴールデン・ペアとして2曲歌をだしましが、富士美さんは人前で話すのは苦手なんです。握手会とかイベントとか、話すのは私。歌をだすときも「大丈夫だよ。やろう」って。初めてのレコーディングは、試合が終わってから、夜中の2時ぐらい。ふたりで歌うのも初めてだし。事前に渡されていたのはオーケストラ演奏じゃなくピアノ伴奏だけのテープ。こういう曲なんだと、初めて聞いたんですよ。富士美さんとは、声の大きさも違うしテンポも違う。最悪のレコーディングだったんじゃないでしょうか。振付は、自由が丘の牛丸スタジオに通ってました。先生があきれるほど、リズム感がなく。側転やってみてと言われ、ふたりでやってみたら、ふたりして受け身して。そしたら、先生いなくなっちゃって(笑)。ぶりっ子ぽい感じで売り出されたのが、違和感ありましたが。
ビクトリア富士美(第68代WWWA世界タッグ王者)
面白かったですね。後輩だけど、いつもいっしょに遊んでたし。ラクでしたね。似たり寄ったりで。1回、ふたりで組んでるときに、外人をボコボコにしちゃったんです。そしたら帰っちゃった。何もできない人だったんですよ。技やったら、立ってこないし、立たないから場外に落とすしかない。それでも立ってこないからイス攻撃。会社からは、お前たち何やったんだ?と言われましたが、「あんまりひどいからさ~、ね」って。息があってた。キレるポイントも同じで。
ルーシー加山(第71代WWWA世界タッグ王者)
堀あゆみ(ジャンボ堀)(第73代WWWA世界タッグ王者)
体が大きいのを持て余してるようなところがあって、もったいなかったんですよ。それを注意しながらやってました。試合中、途中でかえってきてもタッチしないで、まだ行けって。
ファビュラス・ムーラーとのNWA世界戦(1979年10月17日、川崎球場)
ご指名を受けたんです。なんで私なの、よりによってという感じ。ナンシーだったらいいよって言われてタイトル戦が決まったんですけど、つらかったですね。ムーラーさんは、すごい年齢だったんで、動けないんですよ。どうしようっていう感じ。難しかったですね。
クイーン・エンジェルス(ルーシー加山&トミー青山)の帰国第1戦(ビクトリア富士美とのペアで対戦、1978年8月9日、日本武道館)
あれはガチンコですね。ルールを勘違いしてたんです。4人のうち誰かがあがればいいと思ってたんです。場外におりる前にリング内にいた人が上がらなければいけなかった。56分だったかな闘ったのは。あれは悔しかったですね。単純に勝ちたかった。すごいライバル心があって。勝たなきゃヤバイと思ってました。試合の1か月ぐらい前から緊張してたし。練習嫌いな私が練習やりましたから(笑)。メキシコから帰ってきて、何を持ってきたか、わらない怖さがありました。ルチャだし。ふたりとも身体能力高いし。忘れられない試合ですね。
全女の思い出
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Nancy Kumi
最近思っていること
1999年8月9日、ジャッキー佐藤さんが亡くなった。そのとき、最期を看取ったのは、ナンシー久美さんと友人だったと報道されていた。ジャパン女子引退後、佐藤さんと再会したが、その頃、佐藤さんの友人でもあった清心館空手道の館長・池田有紀子さんと知り合い、つながりができていた。
佐藤さんが亡くなる前、ちょっとしたことで再会したんですよ。そのときに(病気のことを)聞いたのが最初。佐藤さんは池田館長をかわいがっていて、友達として信頼している部分があったんです。そこから、私は清心館の仕事を頑張る。館長は、佐藤さんのそばにいるっていう生活が始まったんですけど。佐藤さんは「誰にも言わないでほしい、元気になれば、自分から会いに行くし」って。それが、マキさんには、勘にさわったのか、いま、美化するというか違う話になっちゃってるんですよね。
「亡くなった人は何も言えないですからね。ペアの片割れが違うことを言い始めたら、それが真実に変わっていっちゃう。それが真実だったらいいけど、つくりあげられちゃったら、可哀想ですよね」(池田館長)。
マキさんの頭の中で、記憶ってどうなってるんだろうって不思議でしょうがないんですよ。すごく前後してる部分もあるし、えっこんなこと無かったよっていうことがあったりとか。けっこう「えっ」っていうことが多くて、それが不思議なんですけどね。ある番組で、そこのディレクターと大ゲンカしたんですけど。もっとメディアの方たちには、ちゃんとした取材をしてほしいです。特にテレビはすごい影響力があるので。たとえペアを組んでいても、知らないことっていっぱいあると思うんですよね。ペアだからといって100%相手に見せてるわけじゃないし。仲がいいペアばかりじゃないですし。片方の生きている人の話が真実として、まかり通るっておかしいと思うんですよ。人間、年取ってくれば記憶違いもでてくるし、自分を美化する人もいるだろうし。百歩譲って、そこは仕方ないとこともあるのかなとは思うんですが。だからこそ、取材する人には、いろんな方面から取材をして、慎重になってほしい。もっと亡くなった人を尊重してほしいですね。
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Nancy Kumi
最初の引退。
最初辞めるって言ったとき、会社から、あと1年やってくれないかという話があったんです。月2、3回やって、自然消滅にして辞めようと思ってたんです。でも、私にもファンがいたんですね。問い合わせがきてたらしいんです。「ナンシーはどうしてるんですか」と。だったらデビュー戦と同じ場所で引退式やろうということになって。(1983年1月4日、後楽園ホール)。時を同じくして、高階由利子が引退することになって、だったらいっしょに引退式をやろうということになって。高階は、地元の後援会が力をいれてくれていて。引退式では5分間のエキジビションをやるんです。最後だし、お互いにいいところを出して辞めたかったんです。全力で受けようと思ってました。なのに、すぐフォールされちゃって。ほとんど攻めてるような試合で終わっちゃった。そのときも怒っちゃったんだな。いいところも見せてあげたいじゃないですか。最後までこれかっていうのはありましたね。
会社から親心は感じましたよ。10代半ばから見てきて、寿退社が好きなんですよね。女の子だし、ゆくゆくは、結婚して子供産んで幸せになってくれっていうのは、社長やマネージャーにもありました。引退の理由は、大ケガが怖くなったんです。今、思うと、こじつけかなって思いますが、遊びたかったんでしょうね、きっと。外の世界を見てみたかった。当時は、もっともらしく言ってましたけど。だから、ジャパンで復帰してるんだろうし。
ジャッキー佐藤の誘いでジャパン女子に参加
全日本女子プロレスを引退してしばらくして後の1986年、ジャッキー佐藤を中心とした新団体ジャパン女子プロレスの旗揚げに参加。
ジャパンは、当初1年ぐらいで辞める予定でした。選手育成が目的で。佐藤さんが、一人じゃ厳しいということで、いろんな人に声かけたらしいんです。最後に声かけられて、「やりまーす」って軽いノリでいっちゃったんだな。最初から無謀な闘いでもありましたね。全然知らない素人を半年で仕上げていく。佐藤さんが、格闘技っていうプロレスを目指していたんで、それに見合った体づくりをしていかなければいけなかった。オーディションで来た子たちは全女を落ちてきた体が小さい子が多かったので、その子たちの体づくりは並み大抵でなかったですね。佐藤さんも普段食べるものから考えてやってましたね。
ジャッキー佐藤対神取しのぶ(1986年8月17日、伝説のセメントマッチ)
会場で見てました。試合は見てはいましたけど、正直私もわからないですよ。佐藤さんからは、試合の後、一言だけ聞きました。「人にマジに殴られるってこういうことなんだなって初めて知った」。佐藤さんは、本音とかは自分が信じている人にしか言わない人なんですよ。愚痴も言わない。自分は後輩なので、聞けないですし。想像はできても、本当のところは、わからないです。
プロフィール
1960年12月30日、横浜市出身。1976年プロレスデビュー。77年8月『夢見るナンシー』で歌手デビュー。ビクトリア富士美とのゴールデン・ペアで『ソーダ水のむこうに』『ミステリー・ラヴ』、81年に『アマゾネス女王』を発表。得意技:スープレックス、フライングネックブリーカー、ボディリフトなど。WWWA世界タッグ王座を4度獲得。1983年に全日本女子プロレスを引退。1986年にジャパン女子プロレスで一時復帰。1993年に、清心館空手道に入門。現在は、指導員として活動中。
Interview
Nancy Kumi
清心館・池田館長との出会い
「ジャッキー佐藤さんが体操教室を開いたとき、見学に行ったのがきっかけで知り合いました。就職するとき、“そんな大きな体で、OLさんになるの?格闘技やらなくてどうするの”って言われて。なぜか、ジャッキーさんについていくようになったんです。体操教室の中で、空手部門もあったし。ジャッキーさんは、私をプロレスにあげさせたかったみたいです。私とジャッキーさん、性格もよく似てるらしく、言われたくない嫌なツボも同じらしいんです。なのでしょっちゅう喧嘩してましたね(笑)」(池田館長)。
池田館長とは、佐藤さんから「おもしろいやつがいるから会わせたいんだよね」と言われ、最初、お酒の席で会ったんです。そのときの帰り、佐藤さんと池田館長が喧嘩していたんです。佐藤さんのマネージャーに「大丈夫ですか?」と聞いたら、「大丈夫、大丈夫。いつものことだから」って。私は佐藤さんに逆らっている人を初めて見たんですよ。とても口答えできるような人ではなかったから、びっくりしてたんです。そこから、話をするようになって。
その後、遊びに行ったときに、空手着があって。私こういうの似合うんだよねって着てみたのかな。で、ノリで入っちゃった。私、全部そう。深読みしないんです。入ってから考える。最初の印象は、空手は怖い、プロレスのほうがいい。離れてる相手って怖いですよね。プロレスは組んじゃえばこっちのもんだと思いますけど。見ている限りは易しそうだったんですけど、意外と厳しかった。素人が入るんだったら、それ相応に手順を踏んでいくんでしょうが、プロレスというベースがあるので、指導も厳しかったですね。「本人はやってるって言うけど、やらないんです。いいものあるのに、もったいないなって」(池田館長)。
よく言われるんです。もっとちゃんと練習すれば、絶対いいのにって。でも、やらない。疲れちゃうんだもん(笑)。私は筋肉もつきやすいんですよ。ジャパンのとき、ウエイトトレーニングにも行ってましたが、佐藤さんに「もっとやればいいのに」って言われても、やらないんですよ。もともと、格闘技やると思ってなかったし(笑)。
指導員として
面白いですよ。幼稚園、1年生って小さかったのが大きくなって成長して、大学生、先生になっていうと。続けている子なんか見てると特にね。最近、年取ってきて思うけど。教えていた子が黒帯とったり、大会に出て優勝したりするのを見ると、自分が泣けてきちゃいますもんね。そういうときに、いい仕事だなって思いますよ。
指導方針は、自分のことを棚に上げて言うんですけど(笑)。
できなくてもいいんです。できる努力をしていればいい、っていうのは言っています。何の努力もしないで、試合に負けました。それはないよね。技ができなくて怒られる子はいないんですよ。人の話を聞いてない、見てない、っていうのはできるわけないし、挨拶できない、返事ができない、っていう子には怒ります。また、いままで、ふざけていても、さあやりますよっていう、真剣にやらなきゃいけないときに、笑っていると怒りますよね。
今は何をするときか。
真剣にやるときだったら、やる。
「やるときはやる。遊ぶときは遊ぶ」。
「今はどういうとき?」って聞くと、「やる」って子供たちが言いますし。
それが、池田館長のモットーでもあるんだけど、その精神は受け継いでいきたいですね。